2012年12月16日日曜日

12月16日

昨日、ゆかちゃんと、「モンサントの不自然なたべもの」を観た。
ドキュメンタリー映画をみるときは、その内容を学ぶことと同時に、
作り手の立場や視点に意識をむけながら、
じぶん自身の受けとめかたを常に精査しておくようにしている。

この映画の場合は、作り手の側に明確な意図のあるものだったから、
その「意図」のぶんだけなるべく距離を差し引きながら情報を受けとめる、
という作業をおこなった。
そうやってみていくのは、けっこう忙しい。

ひとは、ものごとを、観たいようにみるし、言いたいように話す。

ひとは、じぶんが「ただしい」と思うことをする。
「ただしい」とは思えなかったとしても、「よいだろう」と思うことをする。
たとえばそれは、お金もうけだったり、何かに勝つことだったり、
1番になることだったりもする。
よきものを世間に知らしめることだったり、
悪しきものを裁くことだったりも、する。

ほんとうに、それぞれにただしいと思うことはちがう。
こちら側の世界からみると悪にしかみえないことでも、
あちら側の世界からみると、至極まっとうなことだったりする。

「よきもの」を広めたくて広めたくてしょうがなくて、

世界を「よきもの」だけの世界にしたくて、
ひとを殺したりもする。

なにかを「ただしい」とおもうことには、いつも、落とし穴がある。
「ただしい」ことは、ただしくなかったりする。

いつもいつも、そういうことを考えていたからか、
今日、投票のあとにふらっと立ち寄った本屋さんで、
ぱっと開いた本にこんな言葉をみつけた。

「立ち位置が違えば、正義も道徳も違う」

そうそう、まさに、それそれ。

どんなにあいいれない相手の考えにも、

その人の生きかたによる文脈があって、
そのひとの生き方考えかたの自由を害することは、
じぶんの生き方を否定することと同じなんだ。

でも、そうは思っていたって、
やっぱり、ひとの考えにおどろいたり、腹をたてたり、しちゃうんだけど…


などと思いながら、多肉植物の土を買って、帰る。

夜に友人からメール。

ある候補者が当選したので、
それについて、ありがとうと書いてある。

わたしは少し考えて、返信した。

「いえいえ、わたし、あなたのことは友だちだと思ってるけど、それとはべつに、選挙はじぶんの考えをつらぬかせてもらっているので、あしからずよろしくね」

すると、返信がやってきた。

「それでいいんだよ!こちらもつらぬかせてもらうから、覚悟してね」と。

ふむふむ、なんかヘンだけど、こやつとの友情はつづいていくのだな、と思う。

わたしが投票した候補者は、落選したのだった。

買ってきた土で、多肉植物をあたらしい鉢に植えかえた。