2016年11月16日水曜日

2016年11月16日

どこ見たってつまんなくて最低最悪な世の中で
ひとすじの光みたいなものが見えたその瞬間にしがみついて生きているし
そこにしがみついて作品を作っているから、

目と心を磨いてもっと見えるようにしていかなければ
死があっちから近づいてくる



2016年11月9日水曜日

2016年11月9日

個展について非常に深い洞察による感想をくださった方にやっとお返事ができた
踊る人としての彼女の姿をこのあいだやっと拝見できたのだけれど、
「問いかけ」というキーワードでつながることができたのだなとおもっている


わたしにはこの世は謎しかないので、問いかけずにはおれないのだ、やはり






2016年10月26日水曜日

2016年10月25日

自己(他者)肯定とか自己(他者)否定とかの問題は、
つきつめると「神」(わたしにとっては「宇宙」と同義)への肯定否定ということになっていくと思っていて、
わたしは、神(宇宙)に全信頼をおいている

 世の中にある嫌いなものを好きにはなれないけれど、全ての存在を肯定している、
もしくは、そうしたいから捉え方を工夫しようとする

わたしにはそういう種類の「肯定」がベースにあるから「幸福」なのだけど、
その「肯定」という行為に「善悪」とか「優劣」とかの価値判断が持ち込まれるときに
「不幸」という感覚が始まるんじゃないかと思う

きちんと調べたことがないので解釈があっているのかどうかわからないけど、
アダムのとイブの食べた「善悪の実」ってそういうことなんじゃないかなと思っている
差異と価値の判断がはじまるともう、「楽園」にはいられない

ところが 宇宙の創造物である「わたし」が創造する「作品」をこの世の美術の世界で問うときには
すでに全員が「楽園」の外側にいて、
善悪優劣の価値判断のもとで評価されてしまう

作り手自身も楽園の外からの視点で作品を見、
自分自身を見て嘆いたりする

そういう二重の機構のなかにわたし自身も居て、
なんとか折り合いをつけながらやっている

2016年10月24日

あったかいご飯にありついた しあわせ

牛肉と玉葱と生姜ともやしとたまごを炒めた


野菜が高くて買えない、もやしは救いだ






2016年10月23日日曜日

2016年10月23日

自分のことを 男でもあり女でもあり、

しかしどちらでもない、と感じているのだけど

石川竜一の撮る写真、世界を見る目線に自分と近いものを感じた

写真家とジェンダー、セクシャリティ、

ということを思いながら昨日は眠った









2016年10月21日金曜日

2016年10月21日

ずっと作り続けて

20時ぐらいに一度集中がおおきく途切れて

そのあと23時過ぎまで作り続けて

今は椅子に斜めにもたれてひたすら息を吐いたり吸ったりしている









2016年10月20日木曜日

2016年10月20日

わたしは、いったん激しいところから生まれてきたものの表面を削いで、

結局静かで淡い場所へおさめていってしまう

それで、大きな声に慣れている人には聴き取りにくくなってしまう、

それを少し哀しくおもう。


でも、もしかしたらそのくらいの距離があることが好きなのかもしれない

作品の話です










2016年10月19日水曜日

2016年10月19日

微熱がつづく
個展までまだ2週間あるはずだがひどく気持ちが追われてナーバスになり
もう自分は作家なんて辞めてしまえば良いのにと思う
悪いことしか考えられなくなる
それから 今の自分をうけいれて ベストをつくすしかないのだ と思う

毎回のことだ

「わたしは誰だ」という問いに苦しみ、
あたらしい自分の登場をよろこんだり、
わけのわからない自分の登場に怖気づいたり、
どうしようもない自分に死にたくなったりしながら作品をつくって、
人に見せて、
「わからない」とか「良くない」とか言われて、
それでも、まだ、やる









2016年10月18日火曜日

2016年10月18日

うつくしい、とか 素敵、とかって、なんだろうか


多くの人が

「見慣れてて、わかりやすくて、あっさりした」

もののこと言ってる気がしてならない

わかりやすいものにしがみついている


もっと、ほんとうはわけのわからないものを

思いきりたくさん持っているはずなのに、

その肉体、脳みそのなかに。












2016年10月17日月曜日

2016年10月17日

また、血混じりの膿が出る、昼まで沈没する、

「母の愛」のような夢を見る。



作品が、しずけさと激情の間で揺れ動く、でもそれに歯止めをかけてはいけない、

歯止めをかけたら生きることそのものが止まってしまう



2016年10月15日土曜日

2016年10月15日

脳から 何か1つの存在を対象としない、
わけのわからない愛情が沸き出して
とまらなくなることがある

眠れなくなる

これをぜんぶ作品にして世界に撒き散らしたいと思う

それがわたしが作品をつくる原初的な動機



2016年10月14日金曜日

2016年10月14日

「アートを身につける」とか「アートとの共存」という概念って既に使い古されてきているけれど
それらは本質的にどういうことなのか?
(人によってきっと180度意味合いが違うんじゃないか)
ということを考える

そういう意味でも デヴィッド・ボウイの美術コレクションにすごく興味がある
それらは「彼自身の人生のために必要な」ものたちだったんじゃないか、
という推測と期待を込めて。

たとえば私にとって「アートとの共存」とは
「インテリアにぴったりな作品ね〜」
ではなくて
「私自身のインテリアに必要な作品です」
ということだ
「あなたの作品、インテリアにぴったりね〜」と言われたなら
わたしは相当落ち込むだろう

まだ少ししか持っていないけど、
わたしも他の作家さんの作品を買う時には
「私自身が生きるために必要」
と思って買う

それらはわたしの心のサンクチュアリを形づくる。









2016年10月13日

学生時代だったか、卒業してからだったか
アトリエから泣きながら飛び出してきた油絵科の女の子を見た 彫刻科の男の子が
「絵ぇ描くひとって、泣くねんな。」
と言ったことを思い出していた

絵を描くひとは泣く。
なぜなら絵を(なかでも特に現代絵画を)描くひとは常に問われているからだ
「お前は誰だ、そこで何をしている」と

そのように何ものかに問い詰められ 追い詰められて 泣きながら答える
だがその答えを常に疑い続ける
そういえばわたしはしばらく泣いていないな、と思った

問いに負けた者には死が、
闘いつづけた者にはいつか光があるだろう
この問いから逃げ続けた者の手に残るのは、
単なる人まねか、中身が空洞である作品の山だ。

わたしがこのごろ泣かないのは、春に1年ぶん泣いたからだ、
だがまた泣くときがやってくるのだろう。



2016年10月12日

これまでオーラが見えるひとだとか 前世がわかるひとだとかのいろいろな人たちから
「あなた、見た目と中身にギャップがありすぎる…」
と言って笑われたりびっくりされたりしたことが4度ぐらいあるのだけど、
たぶんわたしの中にいるのはフュリオサみたいな女なんだとおもう
(もちろん 「マッドマックス 怒りのデスロード」の)